ホーム > 月間結果報告 > 2015年1月終了のお知らせ

2015年1月終了のお知らせ

2015年1月度の月間結果報告です。

お久しぶりです。2月になりました。僕にとっての新年が4日からスタートしています。無事に決算も終わり、納税も済ませて、『さ~て、2015年はもっと楽チンに大金を稼ぎまっせ!』という気分です。

人生は長くて短い暇潰しのゲームです。何で暇を潰しても良いのです。社畜になってもいいし、ソーシャルゲーム廃人になってもいいのです。

でも、どうせなら希望とやりがいがあって、ワクワクドキドキと心を弾ませてみたり、やるせなさや悔しさに全身を震わせてみたり、己の無知や情けなさに心底絶望してみたかとおもいきや一転、『オレって天才?』とアホみたく舞い上がってみたりして過ごしていきたいものです。

僕ら男にとって、金を稼ぐこと(ビジネス)と、女を落とすこと(ナンパ)は、この長くて短い人生の暇潰しの方法として、最高に興味深く、面白く、興奮するゲームだと思うわけですが、皆さんはどうですか?

他に何か、もっとすんごいゲームがあったら是非教えて欲しいです(ちなみに僕は、ビジネスやナンパとは別に、一人旅が好きなのですが、これはゲームというよりリラクゼーションに近いと最近自覚しました)。

「自分にとっての理想のライフスタイル」を自問してみたところで、両親の価値観やマスメディア(主にテレビ)の誘導、古い倫理観・道徳観や不必要な世間体・社会常識に知らずにとらわれてしまっている上に、そして明らかに理想とはほど遠い現実とのギャップもあって、なかなかどうして、自分が本当に望んでいるものは見えてこないものです。

僕はいまのところ、『楽チンに大金を稼いで、魅力的な女性をたくさん抱いて、国内外をブラっと旅して生きていきないなぁ~』と考えていますが、そのためには、知らず知らずのうちに自分を束縛しているモノ(物・者)から、意識的に積極的に距離を取っていく必要があります。

もっとも距離を取る必要があるもの

テレビから離れるのは基本中の基本なのですが、僕にとってもっとも注意深く、意識的に距離を置く必要があるのが「母親」の存在です。

この存在が大変に厄介で曲者なのです。

厄介な存在とは縁を切れば良いので、友人・知人だったら静かにフェードアウトしていけばいいし、会社の上司・同僚だったら退職届を提出すればいいし、夫婦関係だったら離婚届けを出せばいいだけです。

でも親子の縁は、法的に切ることができません。また、親子間では互いに扶養する義務もあります。これは、親に恨み辛みがある方や精神的・経済的に支配されている方にとっては地獄でしかありません。

実際にそのように、まさに親の人生の犠牲になったまま、親が死ぬまで、さらには死んだ後までも、精神的に支配され続けて一生を終えてしまうという超絶悲惨な方もいるのです。特に、女性(娘さん)に多い。

世間一般的には、『親には感謝しなくてはいけない』、『親を尊敬すべきだ』という教えや価値観がありますが、冷静に見て、感謝も尊敬もできない親は沢山いるものです。『んなアホな』と感じた方は、立派なご両親に恵まれた幸せな方です(呪縛にかかっていなければの話)。

僕は、両親に恨み辛みはないのですが、残念な気持ちと情けない気持ちを抱いています。こんな気持ちですから尊敬も感謝もありません。

若い頃は完全に見下していた時期もあったのですが、その状態はあくまで僕と親が同じ土俵に立っているからこそ生じる優越の感情で、今の僕は、もう彼らと交じり合うことのない別の世界に居ます。したがって、特別に意識することも、大きく感情を揺さぶられこともありません。

いつからか僕は、他の誰かと両親の話題になったときには、「父」「母」ではなく、「彼」「彼女」と表現した方がしっくりくるようになっていました。『僕の父親は…僕の母親は…』ではなく、『彼は…彼女は…』といった風に会話をするのです。

その方が、より正確に、「一人の人間としての親」のことを理解することができます。仮に、「僕の…」を付けなかったとしても、「父親」「母親」という表現自体に既に所有格が含まれているため、どうしても「父は…母は…」を使ってしまうと、客観性を見失います。

『親はこうあるべき、こうあって欲しい』という願望や、倫理観や道徳観、世間体や社会常識などのノイズが思考に入り込み、事実認識を歪めてしまいがちなのです。

ですので、両親に限らず血縁が近い関係の人間を理解する際は、第三者的に、「彼」「彼女」という代名詞を使って思考した方が良いです。

さて、僕が母親と距離を置きたい理由なのですが、それはひとことで言うと、彼女が成長を志向しない未熟な人間だからです。

人は月日を重ねていく中、色々なことを経験・体験して、悩み戸惑い、たくさんの失敗と思いがけない成功を繰り返し、そこから何かを学び理解し、少しずつ変化していくものです。それが、人としての成長であり、人間更には人類としての進化であると思います。

しかし、中にはずっと幼稚園児のままの大人がいます。

何十年と生きていても、知識を積み重ねることもせず、生きた知恵を創造することもなく、受動的経験や能動的体験から学ぶこともなく、他人の話は自己都合で解釈し、本を読み通すような忍耐力も皆無です。

いつも感情の赴くまま(その感情がどこから来ているかをおそらく生涯一度足りとも鑑みることもなく)、気分が良ければキャッキャ・キャッキャと騒ぎ、気分が悪ければワーギャー・ワーギャーと泣き叫びます。

実際の幼稚園児は、見た目も愛らしいし、もちろん悪意も敵意もないので、例えご機嫌を損ねて泣き喚いたとしても、『どうしたの?』と構いたくなりますが、大人の幼稚園児の場合は、厄介極まりありません。

恨み辛みの憎悪と敵意の塊でヒステリックに泣き叫び、まるで怨念を投げつけられているようで、闇が迫ってくるその模様は恐怖です。

彼女(うちの母親)の場合、半ば条件反射的に、そのスイッチが入る瞬間があって、怨念のような敵対心を全身全霊でぶつけてくる直前に、「またきたか」と周囲の空気を一変させます。

彼女のこの感情の爆発に、関われば関わるほどエネルギーを消耗してしまうので、対策としては逃げるしかありません。落ち着いて話をすれば分かり合えると信じたいところですが、それは土台無理な話です。

分かり合った風に、うやむやに場を収めることは可能ですが、分かり合うためには、少なくともお互いが、『相手の話を聞こう』という姿勢がなくてはなりません。

さらに、相手の話を聞く姿勢だけでは足りません。

相手を理解しようとする忍耐と、実際に相手の話が理解できる知性がないと駄目なのです。自己を主張するにしても、ヒステリックに泣き喚くのではなく、自分の感情を言葉(日本人なら日本語)として、冷静に正確に伝えることのできる理性と知性が必要です。

そもそも、いつも落ち着いて話をしている中で、突然このようなヒステリックな有り様に至ってしまいますので、彼女には何もかもが絶望的に足りていないのです。だから、大人の幼稚園児なのです。

僕がまだ学生時代などの口喧嘩になっていた時期を経過した今となっては、彼女と僕は、人と人として対等ではないと理解をしています。

幼稚園児と成人した大人は、人としての価値は平等かも知れませんが、決して対等の関係ではありません。例えば、幼稚園児と人生や恋愛や結婚や仕事や家庭のことなどを、真剣に話したくても話せませんよね。

僕は両親から、人生の指針的なことを一度も聞いたことがありません。『なるほど!』とか『そうだったんだ!』とか『すごい!』とか『マジか!』とか、たったの一度もないのです。

それどころか、良書を教えてもらったこともないし、指導を仰げるような人を紹介してもらったこともありません。

それは当然のことで、うちの両親は世間一般的に無知過ぎるのです。僕も、それこそ学生時代や社会に出たばかりの頃は、うちの両親がそれほど無知だとは知らなかったのですが、社会に出て月日を重ねる程、独立してリアルに人生を歩む程、この考えは確信に変わっていきました。

人生には答えがないことが多いので、自分なりの答えを創造して歩んでいくものだと思うのですが、うちの両親は僕より長く生きているのに、本当に「何もない」のです。口から出てくることは、最近のテレビ番組から知り得た情報くらいです。

だから、少し本質的な内容や混み入った事柄、思考が省ける常識論ではなく、人々の意見が交錯している事象などについては、まったく会話をすることができません。

このように何もかも絶望的に欠けてしまっていると、本人も周囲の人間をも不幸にします。とは言い切りませんが、幸福へと導くことはできません。特に不幸だと思うのが、敵と味方を見誤り続ける事態です。

うちの母親が顕著なのですが、彼女にとっての味方とは、自分のご機嫌とってくれる人です。反対に、彼女にとっての敵とは、自分のご機嫌を損ねる人です。

それは、相手の目的や相手の言動の正誤はまったく関係ありません。自分=ご機嫌=良い人=味方。自分=不機嫌=悪い人=敵なのです。

例えば、庭木の手入れや住宅リフォームや投資ファンドの人間が実家に訪問販売にきます。本来、『間に合っているので』で終わりですが、うちの母親の場合、ご機嫌をとられてしまうと話が進んでしまいます。

僕は住宅の営業をしていましたし、投資に関してもそれなりに勉強と実践から学びを得ているので、少なくとも彼女よりは理解が深いです。

そこで、僕は懐疑や懸念と共に、『こうした方がいい』と僕なりの答えを伝えます。この僕の意見は、決して彼女のご機嫌をとるものではないし、彼女にとって面倒このうえない意見なので不機嫌を助長します。

そして、結局はいつも、味方であるハズの僕の話は聞いているフリだけで、最終的には100%スルーされます。99%なのではなく、驚くべきことに、最終的には必ず100%無視されるのです。

そして、なぜか、よくわからない営業マンを信じて高額な購入や契約をしてしまいます。営業マンは仕事ですから、お客様を否定したり、迷わせたり、わざわざ余計なことを伝えません。彼女は、そういったことを理解できないし、理解するつもりがないようです。

さらに、彼女が曲者なのは、購入や契約をした後です。

明らかにボッタクリであったり、サービスの質や営業マンの人間性に問題があったとしても、絶対にその事実を見つめたり、反省したり、そこから新しい知見を得たりしません。ですから、永遠に繰り返します。

彼女の場合、商品やサービスに対してお金を支払っているのではなく、自分を肯定してくれるリップサービスに高額なお金を支払っているわけですが、僕が彼女のそのおかしな点を、日常会話の流れで少し真面目に指摘しようものなら、人相が変わりヒステリックに泣き喚きます。

毎回気になるのが、ヒステリックに泣き叫ぶ際の彼女の言葉です。それは、『私はこれまで何でも一人でやってきた』という反論です。

僕からの指摘は、小学生でもわかる言葉や内容で具体的に伝えているので、この彼女の反論というか主張には違和感を覚えざるを得ません。

どう考えても返答としてはおかしいのですが、ヒステリックさと憎悪の念を前にしては逃げるしか方法はありません。

要は、『私は間違っていない。おまえにとやかく言われる筋合いはない』と主張したいのだと思いますが、既にそこまでに至る会話の中で、彼女の間違いは否定しようがない事実となっていることから、『うるさい!間違っていようがおまえには関係ない』ということになるでしょう。

でも、それを言ってしまうと、さすがに幼稚園児丸出しとなってしまうので、それを隠蔽するために、『私はこれまで一人なんでもやってきた』というズレた反論になってしまっているのだと思います。

彼女はこのようにして、自分と周囲を巧妙に騙して生きているのです。

彼女がヒステリックにブチ切れた大抵翌日には、普通に電話がかかってきて謝罪をしてくるのですが、これにも注意が必要です。なぜなら彼女の場合、自分の落ち度や非を認めて、反省をしての謝罪ではないからです。率直にいえば、この謝罪は懐柔目的でしかありません。

自分が悪いと思っているから謝るのではなく、嫌なやつと思われたくないから謝っているからに過ぎません。したがって、油断して心を許せば、またヒステリックな一撃を浴びせられることになります。

僕がなぜ自分の母親に対して、このような容赦のない文章を書いているかというと、毎回毎回オウムのようにこのパターンだからです。彼女は、まったく変わる様子がありません。いつも、突然怒鳴り散らし、そして謝罪する、の繰り返し。正直、懲り懲りなのです。

周囲の人間が、何を言っても、何回言っても、結局変わることがないのは、変われないのではなく、変わりたくないか、変わるつもりがないかのどちらかです。つまり、失礼このうえない人間なのですよ。

先の話に戻りますが、彼女は彼女にとって心地の良い話しか聞くつもりはないし、彼女は彼女にとって心地の良い話しか信じられないのです。

カウンセリングが必要なレベルだと思う

「ヒステリックにキレた翌日に謝る」という彼女の懐柔方法は、僕が成人してからのものです。僕がまだ親の庇護が必要な小学生くらいの頃は、ヒステリックにキレた後に、『お母さん!もう家を出て帰らないから(激怒&号泣)』と子供を脅し、恐怖や動揺を誘って自分の思い通りに子供をコントロールするという卑怯な手をよく使っていました。

まだ未熟な子供の脆く繊細な感情よりも、自分の感情を優先する大人って、やっぱり問題アリだと思うのです。未熟というより、最早カウンセリングが必要な病気だと考えています。

ちなみに、この『出て行く!』作戦は、さすがに僕が中学生にもなると、『早く出て行け、ババア』となります。啖呵を切ってしまった手前、一応荷物らしきものをまとめて家を出ていくのですが、行く宛もないので、数時間もすると何事もなかったかのように帰宅をしていました。そしていつしか、かなり多用していたこの方法は使われなくなりました。

また、幼いころの僕の新鮮な記憶の一つに、こんなものもあります。

いつだったか、親戚の集まりでおばあちゃん家(彼女の継母の家)に連れて行かれたことがありました。

当時の僕は食事が喉を通らない骨と皮だけのガリガリの小学生でした(栄養失調状態)。食事をすることに恐怖を覚える状態でしたので、こんな親戚の集まりは地獄でしかありません。

だから、その席でも飲み物以外、手をつけることができません。そして、そんな状態ですから、和気あいあいと周囲と触れ合うことも出来ず、早くその場から脱出したい一心です。

おそらくこの僕の状態を、継母もしくは親戚の誰かが母親に懸念を示したのだと思います。どんな表現や言い回しかは不明ですが、要するに、『せっかくみんなが一同に会して楽しくやっているのに、どうしてあなたの息子はその輪に入れないの?』と。

気がつけば、彼女がヒステリックに泣き喚きながら『帰るわよ。来なさい!』と怒鳴られたかどうかは確かではないけど、うちの母親と僕と弟だけが、その場から退席することになっていました(父親は不参加)。

僕は、帰りの車中の助手席から、彼女が悔しさに震えながら涙を流しているのを横目に『どうしたの?』と思いきって聞いてみたら、『黙ってなさい』みたいなことを言われ、「なんだかよくわからないけど、悪いことをしちゃったんたな。でも僕が落ち込んじゃいけないな…」と小学生ながら精一杯気丈に振る舞おうとした記憶が残っています。

まだまだ公園や校庭をどろんこになって駆けずり回っているような子供に対して、何かとヒステリックに高圧的に威圧し、委縮させ、笑顔を奪い、罪悪感でいっぱいにさせてまで、自分の感情の方を優先していたのがうちの母親です。

このような当時の記憶から30年経過した今に至っても、彼女は全く成長していません。変わったことといえば、子どもたちが彼女のコントール下から逃れたことくらいです。

このように問題ありの彼女ですが、彼女に徹底的に欠けているのは、幼少時に与えてもらえなかった愛情であり、そこからくる自己肯定感です。

幼少時に何があってどんな日々を送っていたのかはわかりませんが、彼女の親・継母を含めて周囲の愛情が足りなかったのはわかります。

彼女の人生は、そんな親や境遇に対するリベンジだと思います。『愛されなかったけれど、淋しい思いをしたけれど、恵まれた環境ではなかったけれど、私は私の力で立派な家庭を築いた。どうだ見たか!』と。

言葉が悪いですが、家族は彼女のリベンジのために利用されてきたとも見えてきます。彼女は彼女の理想や目的のために、我が子に余計なプレッシャーをかけてでもリベンジを果たさないといけない。

彼女にとってこのリベンジの失敗は許されません。失敗は生きる意味、生きてきた意味を失うことになります。そのような彼女の言動に対する否定は、決して許されないものです。彼女にとっては、全人格・全人生の否定となってしまうようなのです。

彼女を人生の伴侶に選んだ男性(うちの父親)は自己責任で良いのですが、不幸なのは子供です。余計なプレッシャーをかけられ、不要な感情を抱かされ、卑屈にされられたり、罪悪感に苛まれます。そして、この負の連鎖は、本人や息子・娘が自覚することなく続いていくのです。

本来、人生には特別な意味などなく、日々明朗・快活に、もっと自由に気の向くままに、やりたいことに夢中になって生きていいものです。

ですので、程度の差こそあれ、こういった宿命を背負って生まれてしまうと、それはやはり、客観的に見たら不幸なのだと思います(まぁ、客観的に見ても仕方ないことですが)。『人生は平等』などと言っている人は、現実をリアルに歩んでいない人間です。

少し話が逸れてしまいますが、よく子は親を選べないといいますが、僕は反対に、親は子を選べないと思っています。

それは、子供の方が、自らの意思で、主体性に、この親を、この肉体を、この環境を、選んで生まれてきたと考えているからです。

『実際どっちなの?』は関係ありませんし誰も知りません。このように考えて、このように信じた方が、人生を建設的に生きていくことができるので、そう考えているだけのことです。

親のせい、生まれ持った才能のせい、生まれ育った環境のせい、は実際のところ多いにある(というか大抵の人間はそれでほぼ決まっててしまう)のですが、そのような自助努力でどうにもならないことに、僕は自分の時間や労力を使いたくありません。

僕の過去を振り返ると、彼女(うちの母親)から物理的な距離を置けば置くほど、僕の人生は快活で希望に満ち溢れ、現実に成長をしていきます。反対に、彼女と物理的な距離が近ければ近いほど、僕の人生は闇に引きずり込まれ光を見失いがちになります。

ですので、注意深く意識的に「母親」と距離を置く必要があるのです。

2015年2月度の展望

ビジネスをしますよ。ナンパはまだ後。でも、美容やファッションには力を入れ始めています。

先日、シャワーヘッドを100%塩素除去のものに取り替えました。湯はまろやかになるし、バサバサだった髪がしっとりまとまります。すごい!

それと、麻布にある美容鍼灸に行きました。アンチエイジングやリフトアップが目的です。ほうれい線が一発で消えました(1週間くらいで戻るけど)。痛くない美容針と熱くないお灸でとてもリラックスできますよ。今後も月1くらいで通うと思います。

おまけ:先月貼り忘れた金塊の写真です。台北の金瓜石にある黄金博物館で撮影。開口部から手を突っ込んで触れることができます。

220.3キログラムあるので、本日の日本円時価でおよそ11.5億円。

220.3kgの金塊

最近の投稿
全ページへのリンク
最近のコメント
カテゴリー
アーカイブ

ページの先頭へ戻る