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創造の苦しみ・作業の苦しみ

「創造」と「作業」の2つの苦しみについて書いてみたいと思います。

仕事で例えるなら、「創造の苦しみ」は、自ら新しい仕事を生み出す苦しみ。「作業の苦しみ」は、人から与えられた仕事をこなす苦しみ。どちらも「辛く苦しいこと」には変わりはなく、苦しみの質量も似ている。

最近の僕でいえば、収入を得て生活をしていくための「作業の苦しみ」と、もっと本質的で根本的な欲求である、「挑戦・冒険・表現」をしていくための環境づくりである「創造の苦しみ」に直面しています。

このブログを更新する度にも、「創造の苦しみ」を経験しています。更新が止まっているときは、作業に追われ「作業の苦しみ」の渦中にいます。

苦しみの理由は、混乱と自殺

創造の苦しみは、「混乱」にあります。混沌とした世界から答えを創造する苦しみ。混沌とした世界に一筋の光を見出だす苦しみ。

作業の苦しみは、「自殺」にあります。自我を押し殺すの意。山田かまちは、『自分はテストをやるためだけに存在する機械だ』と自分を殺した。

僕自身、創造性の欠片もない作業を長時間していると、心臓を肺ごとギュウゥ~っと握り潰されるような苦しさに襲われます。

まだ20代の頃、上京するお金を貯める為に、工場の夜勤アルバイトをしたことがあります(結局2回上京して2回逃げ帰った)。1日8~10時間同じ場所に突っ立ち、ベルトコンベアーから流れてくる車の部品にスポンジをかまして蓋を被せ、ボタンをポンッと押すだけの作業。日当15,000円。

どうしてもお金を貯めて上京したかったので、自分を騙し騙しなんとか数ヶ月間耐えることができたけど、こういった仕事を5年も10年も、なんなら定年退職まで永遠こなせていける人の気が知れません。

『流れ作業大好き!』という人間は聞いたことがないので、つまりは「生活のために生命時間を削ること」に対し、何も疑問を感じない人か、もしくは何かしらの理由をくっつけて見事に己を抑圧し続けられる人だと思う。

「作業の苦しみ」と「創造の苦しみ」の違い

僕にとっての「作業の苦しみ」は先に書いた通りですが、僕にとっての「創造の苦しみ」も同様に辛いものです。思考の混乱が収束に向かわず暴走し、「数日間ほぼ寝たきり状態」というのも何度か経験しています。

しかしながら、この質量の似た2つの苦しみの最大の違いは、苦しみから開放された直後にあります。明らかに心身の状態が異なる。

作業の苦しみから開放された直後は、エネルギーの消失を感じます。擬音で表現すると「クタッ」です。反対に、創造の苦しみから開放された直後は、エネルギーの充足を感じます。擬音で表現すると「グワッ」です。

僕の心身がどちらを望んでいるのかは、この感覚でわかります。

最近は、「自分にしかできないことをやろう」と強く思うようになりました。他人の代わりが効く「作業」をこなすのではなく、自分にしかできない「創造」によって市場に価値を生み出していく。それが存在の意義ですし。

おまけ:「疑問を感じる人」と「感じない人」

僕は社会に出てから、人間には「疑問を感じる人」と「何も疑問を感じない人」の2種類が存在することを知りました。そして、勉強のできる人(学歴の良い人)が、必ずしも頭が良い人ではないことも知りました。

学歴の良い人というのは、「何も疑問を感じない人」である場合が多いことも。何も疑問を感じないからこそ、受験のためのテスト勉強を続けていくことができるわけ(テスト勉強は創造ではなく記憶という作業)。

そしてこの、「何も疑問を感じない人」というのは、自分で考える力がありません。自分で物事を考えられないのだから、当然自分の意見もありません。何かをしゃべってみたところで言葉に力がなく薄っぺらい。白々しい。

大人はもっと色々と考えて生きているのかと思っていたけど、ほとんどの大人は何も考えていないことがわかって実に腑に落ちた20代でした。

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